農に生きる村【 北 原 】
南北に細⻑く伸びる北原区の集落
北原の歴史
寛永18年(1641)、越の前新⽥(飯⼭市常盤)の佐藤権左衛⾨は、飯⼭藩へ北原地積(飯⼭市瑞穂、北原)での新⽥開発を願い出ました。⽤⽔は野沢村を流れる⾚滝川から分⽔し、坪⼭村地内を経由して、⼭腹を横切って柏尾村北組まで引こうとしたのです。途中、北原地積で⽔を引き落として、新開地に灌漑する計画を⽴てました。
この佐藤権左衛⾨とは、どういう⼈物だったのでしょうか。⽗親は市兵衛といい、越の前新⽥村や吉村(飯⼭市⽊島、吉)の開発に着⼿した⼈でした。佐藤家の家伝では、武⽥家のもと家⾂で、のちに⾼遠城主になった保科家に仕えた、武⼠の家筋だったといいます。
北原区付近の⽔系図(『新編瑞穂村 誌』)
⽗から越の前新⽥を受け継いだ佐藤権左衛⾨は、10町歩を超える⼟地を所有していました。飯⼭藩の 郡奉⾏に任じられなどした佐藤権左衛⾨は、延宝元年(1673)に亡くなりますが、 26年後の元禄12年(1699)から、越の前新⽥は⼾狩新⽥と公称されるようになりました。越の前という地字には現在、松の⽊と庚申塔が建っています。
万延元年(1860)字越の前に当時の佐藤権左衛⾨らが世話⼈となって建てた庚申塔。後⽅は飯⼭照丘⾼校と⼾狩新⽥地区
さて、佐藤権左衛⾨が新たに開発を企てた北原地積は、越の前新⽥から千曲川の対岸下流に⾒通せる場所にありました。北原地積 の⻄には千曲川が流れていますが、残念なことに⽔⾯が低いために、灌漑や飲み⽔としては使えないのです。そこで、⽑無⼭に源を発する⾚滝川から、はるばる⽔を引くことにしたのです。
北原地籍の開発が飯⼭藩から認められて、⽤⽔堰が引かれました。これがこんにち北原区と柏尾区との共同⽤⽔になっている「下堰」です。この堰は千曲川を望む傾斜のきつい⼭腹を迂回していて、⻑さは約3.5kmあります。下堰が完成したのは、佐藤権左衛⾨が財⼒と堰掘り経験とを兼ねそなえていたことによると伝えられています。
佐藤権右衛⾨家に伝わる歴代当主の事歴書き
飯⼭藩役⼈の野⽥喜左衛⾨は関⽥⼭脈の峯近くの茶屋池を⽔源とする平⽤⽔(常盤⽥圃を潤す⽤⽔)を開削 したことでよく知られています。じつは、この⽤⽔開削には佐藤権左衛⾨ が深くかかわっていました。堰開削の功労によって、同家は平⽤⽔の管理特権を後々まで握りました。
ところで、北原区に残されている史料によれば、佐藤権左衛⾨が引いたとされる下堰の灌漑⾯積は、柏尾村分が約九割で、北原新 ⽥分は⼀割にすぎません。また、平⽤⽔のような利⽤特権が彼には与えられていません。
こうしたことから、佐藤権左衛⾨が北原地積への引⽔を願い出たとき、すでに下堰はあったのではないかという考えがあります (『新編瑞穂村誌』)。佐藤権左衛⾨は古い堰を改修しただけなのではないかというのです。これは今後の課題にしておきます。
さて、北原新⽥村は、寛⽂4年(1664)にはじめて飯⼭藩の検地を受けました。家数は11軒、耕地はあわせて4町歩余、⽯⾼はわずか35⽯ほどでした。「権左衛⾨分」の⼟地のほかに、「飯⼭家中(藩⼠)分」の⼟地が検地帳に記されています。したがって開発は、数⼈の藩⼠( 侍 )の出資によってもなされたと考えられます。
こうした場合、⼟地の名義⼈は藩⼠ですが、じっさいの耕作者は地元の百姓たちでした。このような「家中請負」による新⽥開発は、飯⼭藩の初期新⽥ではしばしば⾒られたすがたでした。
「北原新⽥では⽔利特権も得られず、地形的にも発展の余地がない」。そう判断した佐藤権左衛⾨も は、越の前新⽥へもどってしまいました。あとは、分家の権右衛⾨にまかせたのです。権左衛⾨家から分家した佐藤権右衛⾨が、北原新⽥の⼤部分の耕地を譲り受け、村政権も継ぎました。これが寛⽂10年(1670)ごろのことでした。
初代の佐藤権右衛⾨は、20年ちかく村政に携わり、新⽥の開発に⼒を注ぎました。彼は貞享4年(1687)に亡くなりましたが、その後は当家だけが代々、庄屋・名主をつとめています。また、⼆代⽬、三代⽬のころには村内に数軒の分家をだしています。北原新⽥の家数・⼈⼝は、享保20年(1735)に25⼾、110⼈。その後は⼤きな変化はなく、慶応4年(1868)には33⼾、160⼈でした。
さて、下堰の⽔は野沢村との約束で、⽥⽤⽔に必要な春から秋までしか使えませんでした。そのため、北原新⽥の⽔不⾜は深刻でした。⽔掛けはもちろん、⼟⼿普請や堰浚いなど、管理のいっさいは、野沢村の認可や⽴ち合いが必要とされていたのです。 飲み⽔を確保するために、冬季も引⽔できるよう、くりかえし野 沢村に嘆願しました。待望久しく、それが認められたのは、天保14年(1843)のことでした。
⾚滝川からの下堰取⽔⼝(字⻄の越)。野沢温泉村最終処分場の隣
その後まもなく、下堰は⼆度、⼤きな災害にみまわれました。⼀度⽬は弘化4年(1847)の善光寺地震のときです。⼭崩れが起きて、下堰の⼀部が⼟砂で埋まるという惨事でした。⼆度⽬は嘉永4年(1851)の冬でした。⼤雪が下堰へ吹き込んで、⽔を⽌めてしまいました。やがて⼟⼿が抜けて、⼤量の⼟砂が⽔⽥を覆ったのです。冬季に引⽔したことが禍を⽣む結果となってしまいました。
災害のたびに、北原新⽥と柏尾村北組は⼈⾜を動員して、⼤掛りな復旧普請をおこなってきました。今なお⾚滝川から豊かな⽔を運んでいる下堰ですが、先⼈たちの労苦が偲ばれます。
整備された現在の下堰
くるみによる都市との交流とコミュニティビジネス
始まりは、囲炉裏から始まる01(ゼロイチ)運動
長野県飯山市北原区は、戸数25戸、人口約60名の将来の集落維持への危機感が漂う小集落です。
今後の厳しい過疎化が予想される北原区という集落で、地域の将来を見据えた諸施策を考え推進しているのが、平成19年に組織された「北原区ふるさと暮らし支援委員会(委員数10名)」です。この委員会が中心となり、月1回のペースで1階にある囲炉裏を囲み、地域の夢を語り合い活性化策を検討しそのアイディアを具現化してきました。
委員会は、先ずはひとり一人がゼロから一歩を踏み出す「01(ゼロイチ運動)」を基本方針に掲げて活動しています。それは小さな活動の積み重ねのことであり、先ずは、1つの行動を起こすことで、自信や誇りとなり、さらに2歩3歩の行動につなげていこうという考え方です。
そして、この囲炉裏から始まる01運動の最初の事業が、「くるみのオーナー制度」です。
囲炉裏を囲む会(平成19年)
くるみの活用により都市との交流とコミュニティビジネスへ
くるみのオーナー制度とは、オーナー希望者が、1本1万円を支払うと1本のくるみのオーナーになることができ、自分のくるみの木の収穫をすることができます。そして、オーナーが収穫できなかったくるみの実は、地域のビジネスに使用されるものです。
この取組は、①荒廃地にくるみの木を植えることで「荒廃地の減少」②オーナーがくるみの木を世話するために北原区を訪れることによる「都市との交流から移住促進」➂くるみの実の販売によるコミュニティビジネスによる「住民負担の軽減」の3つの成果があげられるというものです。
この制度をホームページ等でPRしたところ、約20名のオーナーにより40本以上のくるみの木を植えることができ、1ヘクタール以上の荒廃地の減少となりました。今年で10年目を迎えましたが、毎年数組のオーナーが北原区を訪問し区民との交流も始まっています。また、昨年の平成29年に、くるみの実も多く成り始めたことから、オーナーに参加をいただき収穫祭を開催し、そして夢であったコミュニティビジネスをスタートさせたところです。
くるみの木植樹祭(平成20年)
新会社「きたはらスタイル」の設立と商品「村ぐるみ」の販売
さて、委員会にとっては、コミュニティビジネスというものは、言葉では知っていてもさてどうやるのか全く分かりませんでした。
先ず、くるみという商品をどう販売するのか。「生」なのか「加工」なのか。包装はどのようにするのか。値段はいくらにするのか。どこで売るのか。商品名を何にするのか。また、販売する組織をどうするのか。会社にするのか、NPOにするのか、他にあるのか、会社の名前はどうするのか、など。
そこで、地域活性化センターの助成金を活用して、マーケティングの専門家と地域住民とのワークショップを2回開催しました。コミュニティビジネスを行う上で重要なことは、情報の共有とみんなの合意による意思決定です。このワークショップを通じて、メンバー総意で物事が決まっていく過程を体験できたことは、このビジネスがみんなのものであることを実感し、みんなで協力してやって行こうと思えたものと感じています。
そのことが現れているのは、商品名と会社名です。くるみの商品名は、この事業を全員でやっていくという意味の「村ぐるみ」となり、また、会社名が、その村全体で行うという手法が北原集落の独自のスタイルという意味の「きたはらスタイル」としました。「名は体を表す」とはこのことかと思います。
そして、令和3年には、北原区新くるみ祭りを開催して、市内外から多くのお客様が訪れ、これにより北原区のくるみ「村ぐるみ」が多くの方に知っていただけました。今後も新くるみ祭りを継続することにより、「村ぐるみ」のブランド化を図っていきます。
村ぐるみ
北原区新くるみ祭り(令和3年)
これから地域活動の手法とは
これまでの委員会の取組を振り返り、これからの地域を育てる地域活動の手法におけるポイントを上げたいと思います。それは、先ずは地域の課題を他人ごとではなく自分ごとと捉え、次に考え出した新たな事業に共感し、そして事業に思いきりチャレンジしてみる、この3段階の流れ(デザイン)を完結することです。
委員会では、囲炉裏を囲みながら地域の課題を話していたところ、自分自身や家族の悩みが他の区民も同じように抱えていることがわかり、一人ひとりの悩みを解決していくことが地域の課題を解決することにつながっていくが分かってきたのです。
また、共感の条件として、①新鮮で驚きがある②思いやりと愛がる③社会問題を一気に解決することがあると思います。くるみのオーナー制度は、全国で初めての制度であることで①、地域の住民負担の軽減につながることで②、負担軽減の他に農地の荒廃地の減少や移住推進にもつながることで③、というように3つの共感の条件が満たされるものでした。このように、共感できる事業であれば、社会実験のように新たな事業に思いきりチャレンジすることも厭わないでしょう。
くるみを活用したこの地域活動は、まさにこれからの地域活動の手法において、ヒントに成り得るのではないでしょうか。
北原区ふるさと暮らし支援委員会(きたはらスタイル)